言っちゃあれだが浅い詩だなこれ…
定型を意識しつつ破ることに意味があるから
百歩譲って最初に「これは俳句だ!」って出した人はまぁいいとして
そこ以外は1から10まで同意
そこ以外は1から10まで同意
名乗ったもんがちみたいなところはある
定型をしっかり守って、語彙も俳句らしいの限定に絞るとそれって確率的に同じ句が出来る可能性高いよね
むしろ同じこと繰り返すだけなんじゃ?っていう発想から出来たもの
定型をしっかり守って、語彙も俳句らしいの限定に絞るとそれって確率的に同じ句が出来る可能性高いよね
むしろ同じこと繰り返すだけなんじゃ?っていう発想から出来たもの
自由って言ってもウンコ出たーオシッコも出たーおならもだーアハハみたいなものは違うんでしょ
新体詩より古いっていう自負があるから俳句という名前を捨てられないっていうのはありそう
短歌→連歌→俳諧→俳句っていう積み重ねがあって俺たちはその流れにいるんだ!っていう発想
短歌→連歌→俳諧→俳句っていう積み重ねがあって俺たちはその流れにいるんだ!っていう発想
詩は明治になってから
なんで日本には短い詩はあるのに長い詩はないの?って気づいた人が輸入したものだから
歴史から言えばだいぶ違う
なんで日本には短い詩はあるのに長い詩はないの?って気づいた人が輸入したものだから
歴史から言えばだいぶ違う
じゃあ俳句じゃなくてもよくない!?
17文字で新しいもの作るのはもう無理なんだよ…
俳句じゃなくて詩だよね
新しい形の俳句というより俳句にしがみついてるように見える
つまり…「俳句」というネームバリューを利用してるだけ…
夏井先生の添削見てるとわりと自由に感じるけど元の十七音極めてるからできるんだろうなとも思う
575の限界に辿り着いた わかる
575を無視したものを作った わかる
だけど俳句を名乗り続けます わからない
575を無視したものを作った わかる
だけど俳句を名乗り続けます わからない
>だけど俳句を名乗り続けます わからない
俳句じゃない新ジャンルでいいと思うんだ
俳句じゃない新ジャンルでいいと思うんだ
自由律っていうのはただ自由なだけじゃなくて
575より若干ズレててそのズレをあえて有効的に使うとかそういうのが多い
だから俳句がベースであることにはちゃんと意味がある
575より若干ズレててそのズレをあえて有効的に使うとかそういうのが多い
だから俳句がベースであることにはちゃんと意味がある
五七五と季語を入れるのが俳句だとしてどっちもないのに俳句と呼べるのだろうか
ただの文章では…?
権威がいいと言ったらいいんだよ!って芸術家が言ってました
花火があがる空のほうが町だよ
あらしがすつかり青空にしてしまつた
うそをついたやうな昼の月がある
打ちそこねた釘が首を曲げた
いつしかついて来た犬と浜辺に居る
咳をしても一人の人の他の自由律俳句
あらしがすつかり青空にしてしまつた
うそをついたやうな昼の月がある
打ちそこねた釘が首を曲げた
いつしかついて来た犬と浜辺に居る
咳をしても一人の人の他の自由律俳句
>花火があがる空のほうが町だよ
やべえな上手え
やべえな上手え
季語のない575は川柳という認識で良いの?
>季語のない575は川柳という認識で良いの?
無季俳句です
無季俳句です
洒落やユーモアや風刺とかに重きを置いてるのが川柳だと思えばいい
「咳をしても一人」はこの短さの中に映像が描けていてそこに寂しさという感情が立ち上がってくるのに対して
「猫を口に入れるたびに食べ物じゃないと思う」はただ思ったことを書いてるだけになってる上に内容がしょうもない
「猫を口に入れるたびに食べ物じゃないと思う」はただ思ったことを書いてるだけになってる上に内容がしょうもない
あんま芸術とかはわからんけど咳をしても一人はめちゃ完成度高いとおもう
裸の王様の「馬鹿には見えない服」だろ