暇だから論破してほしい
自殺
はい論破
はい論破
死ぬ時期はある程度制御可能
延命は困難でも自殺ならやる気の問題
延命は困難でも自殺ならやる気の問題
俺は精子だった時死ぬ程の思いで泳ぎ2位(実質1位)を勝ち取って自分の意思で生まれてきたはず
インディアンの名言みたいな感じ
暇なら自分で論破しろよ
なにがだからだよ
どこに関連性あるんだよ
どこに関連性あるんだよ
だからの前後関係が謎で笑う
生と死は対
生のほうが自由でなければ、
死も自由ではない
この問いは極論すると、人間は生や死を自由意志で決められるか
という深い内容なのだが、中卒にはわからんかっただろうな^^;
生のほうが自由でなければ、
死も自由ではない
この問いは極論すると、人間は生や死を自由意志で決められるか
という深い内容なのだが、中卒にはわからんかっただろうな^^;
>>11
しかし、そもそも生と死ってのも人間が作り出した概念に過ぎん所はあるがな
人間の意識は60兆の細胞の集まりが一人の人間の意識を生みだしている状態があるわけで、
どこからどこまでが生、そもそも何を持って生とするのか自体が難しすぎるんだが、生って何?
仮に意識がある状態を生とするならば、眠っている状態や全身麻酔、植物人間状態は死になるのか?
しかし、そもそも生と死ってのも人間が作り出した概念に過ぎん所はあるがな
人間の意識は60兆の細胞の集まりが一人の人間の意識を生みだしている状態があるわけで、
どこからどこまでが生、そもそも何を持って生とするのか自体が難しすぎるんだが、生って何?
仮に意識がある状態を生とするならば、眠っている状態や全身麻酔、植物人間状態は死になるのか?
例えば、「今夜、東京で雨が降っている」という事実には必然的な原因(充足した理由)があると私たちは考えます。
「今夜東京は、西からやってきた低気圧に覆われ、気圧差による上昇気流で厚い雲が生じ、それが雨を引き起こす」というように。
このように事実には必ず理由(原因)があり、かつそれは完全には知ることは出来ない(だから天気予報は外れる)というのは、人間の思考の基本的な前提です。
当然、原因の連鎖というものは、局所的なものに留まらず、日本の気圧配置はブラジルの気圧配置とも、太陽系の動きとも関係しており、私の目の前の小さな事実の中に世界全体の関係性が開示されているとも言えます。
こういう原因のつながり(充足理由律)で覆われたものとして、ライプニッツは世界を考えます。
「今夜東京は、西からやってきた低気圧に覆われ、気圧差による上昇気流で厚い雲が生じ、それが雨を引き起こす」というように。
このように事実には必ず理由(原因)があり、かつそれは完全には知ることは出来ない(だから天気予報は外れる)というのは、人間の思考の基本的な前提です。
当然、原因の連鎖というものは、局所的なものに留まらず、日本の気圧配置はブラジルの気圧配置とも、太陽系の動きとも関係しており、私の目の前の小さな事実の中に世界全体の関係性が開示されているとも言えます。
こういう原因のつながり(充足理由律)で覆われたものとして、ライプニッツは世界を考えます。
>>20
ふむ、これは決定論的な考え方という事でいいのか?
全ての物は何かの法則に従って動いているので、一見ランダム性があるように見えても、全ては必然の元に動いているという事か?
ふむ、これは決定論的な考え方という事でいいのか?
全ての物は何かの法則に従って動いているので、一見ランダム性があるように見えても、全ては必然の元に動いているという事か?
>>28
ライプニッツの予定調和の考え方からいけばそういうことだと思いますけどね
ライプニッツの予定調和の考え方からいけばそういうことだと思いますけどね
>>30
まあ順当に考えるとそのライプニッツとやらの言う事には納得せざるを得ない所はあるよな
宇宙や銀河の様子を見ても、例外なく法則性を持って動いている、原子や陽子や中性子などを見ても法則性を持って動いている事が確認出来る
俺ら人間も法則によって決められた通りに動いているだけだが自らの意思で物事を選択していると錯覚しているだけかもしれん
まあ順当に考えるとそのライプニッツとやらの言う事には納得せざるを得ない所はあるよな
宇宙や銀河の様子を見ても、例外なく法則性を持って動いている、原子や陽子や中性子などを見ても法則性を持って動いている事が確認出来る
俺ら人間も法則によって決められた通りに動いているだけだが自らの意思で物事を選択していると錯覚しているだけかもしれん
意識がなんであるのかまだ誰も説明できないわけでして
まず、細胞が集まって意識を作っているとか、
意識は脳の化学反応の産物である、という考え方は、唯物論の考え方ですよね
意識は脳の化学反応の産物である、という考え方は、唯物論の考え方ですよね
勝手に産んだとかで両親を訴える御時世だし、自分で決められるんじゃねーの?
決定論については量子論とかもあるしそうなのかそうじゃないのか分からんが
少なくとも人間の意識については体験的には決定論的だと感じるね
いわゆる洗脳が可能なのは世界観が今まで取り入れてきた情報によって左右されるからだし
少なくとも人間の意識については体験的には決定論的だと感じるね
いわゆる洗脳が可能なのは世界観が今まで取り入れてきた情報によって左右されるからだし
そうなんですよ。自分の自由意志で決めているというのは幻想なんですよ
問題は人間から見たら世界は決定論的に見えるが
それは人間の認識を通してみたらそう見えるということであって
実際はどうだかわからないということ
それは人間の認識を通してみたらそう見えるということであって
実際はどうだかわからないということ
>>36
しかしあくまで人間が観測できる範疇の物に関しては法則的に動いている事が確認出来るわけだから
仮に人間が観測不可能な物から何らかの干渉を受けている場合でも、
人間が観測できる物に対して矛盾が起こらない様に干渉されければならないわけだから、
人間が観測できる物以外の物も法則通りに動いていなければならないんじゃないか?
つまり人間から見たら世界が決定論的であるなら、人間以外の部分から見た場合でも決定論的になっていなければおかしいんじゃないか?
しかしあくまで人間が観測できる範疇の物に関しては法則的に動いている事が確認出来るわけだから
仮に人間が観測不可能な物から何らかの干渉を受けている場合でも、
人間が観測できる物に対して矛盾が起こらない様に干渉されければならないわけだから、
人間が観測できる物以外の物も法則通りに動いていなければならないんじゃないか?
つまり人間から見たら世界が決定論的であるなら、人間以外の部分から見た場合でも決定論的になっていなければおかしいんじゃないか?
>>39
これは因果律に関する面白い話ですね
ボームの暗在系と明在系の話を調べてみるといいですよ
これは因果律に関する面白い話ですね
ボームの暗在系と明在系の話を調べてみるといいですよ
>>39
その法則的に動いている事が確認出来るってのも
人間の認識というフィルターを通してみればっていう前提があるしな
だから人間から見て法則的に動いている様に見えても
それがそのまま真になるということではないみたいな
カントで言えば物自体っていう考え方かな
その法則的に動いている事が確認出来るってのも
人間の認識というフィルターを通してみればっていう前提があるしな
だから人間から見て法則的に動いている様に見えても
それがそのまま真になるということではないみたいな
カントで言えば物自体っていう考え方かな
>>43
仮に神の視点の様な物があったとしても、それとは別に自分は自分としてここに確かに存在し、
自分の認識では矛盾なき現象が目の前に確実に存在しているわけだから、
少なくとも自分の目の前で起こっている矛盾なき現象を起点として矛盾なき世界が広がっていなければならないと思う
自分の存在を錯覚として扱う事は出来ないからね、何をどう考えても自分という物は存在するので、必ず自分はある物として扱わなければならない
仮に神の視点の様な物があったとしても、それとは別に自分は自分としてここに確かに存在し、
自分の認識では矛盾なき現象が目の前に確実に存在しているわけだから、
少なくとも自分の目の前で起こっている矛盾なき現象を起点として矛盾なき世界が広がっていなければならないと思う
自分の存在を錯覚として扱う事は出来ないからね、何をどう考えても自分という物は存在するので、必ず自分はある物として扱わなければならない
>>47
我思うゆえに我ありだね
しかしこの我は思考する我、思考であって
では思考しないとき我は存在しないのかってなるしね
つまりこれも思考という前提の上での説明であって
つまりは物自体、世界自体の説明というよりは
人間の認識における世界観がどう成り立つかについて説明する考え方だと思うわ
我思うゆえに我ありだね
しかしこの我は思考する我、思考であって
では思考しないとき我は存在しないのかってなるしね
つまりこれも思考という前提の上での説明であって
つまりは物自体、世界自体の説明というよりは
人間の認識における世界観がどう成り立つかについて説明する考え方だと思うわ
>>57
我思うゆえに我ありは、存在の話という解釈もありますが、
私は唯心論の話だと思います。
我思うゆえに我ありは、存在の話という解釈もありますが、
私は唯心論の話だと思います。
>>60
論というかコギトエルゴスムという言葉自体はまんま
何もかも疑えるけど思考する主体は疑えないってだけだからなあ
心やその働きはあくまでも物質に還元されない独特な性質をもつ
とまでは言い得ないんじゃないかな
論というかコギトエルゴスムという言葉自体はまんま
何もかも疑えるけど思考する主体は疑えないってだけだからなあ
心やその働きはあくまでも物質に還元されない独特な性質をもつ
とまでは言い得ないんじゃないかな
>>63
意識と世界の関係でいえば、
世界が主で、意識は世界の中に存在する従、と考えるのが一般的ですが、
世界を観測する意識が主で、観測される世界が従である、と考えることもできます。
意識と世界の関係でいえば、
世界が主で、意識は世界の中に存在する従、と考えるのが一般的ですが、
世界を観測する意識が主で、観測される世界が従である、と考えることもできます。
>>66
先も言ったけどでは意識が存在しないとき世界は存在しないのかってなるが
コギトエルゴスムはそこまで言及してないんじゃないかな
先も言ったけどでは意識が存在しないとき世界は存在しないのかってなるが
コギトエルゴスムはそこまで言及してないんじゃないかな
>>67
そうなんですよ。
つまり観測する意識が存在しないとき、世界は存在しないかもしれない、ということで
もっというと、存在するかどうかは意識が決める、ということになりませんか?
そうなんですよ。
つまり観測する意識が存在しないとき、世界は存在しないかもしれない、ということで
もっというと、存在するかどうかは意識が決める、ということになりませんか?
>>70
疑いうるからと言って存在しないってことじゃないんじゃないかな
疑いうるからと言って存在しないってことじゃないんじゃないかな
>>57
しかし人間の意識というのも、この世界の一部だからな
世界が起こした現象によって意識が発生したならば、そこを別物として扱って意識は意識、世界は世界と切り分けて考える事もまた不自然な事だろう
意識が世界を思考する時、意識から見た世界は矛盾してはならない、そして世界なくして意識が存在する事もあり得ないので、
世界は意識に矛盾を感じさせない意識を作り出さなければならない、矛盾した世界が矛盾のない意識を作り出す事は不可能、つまり世界もまた矛盾してはならない、という事に繋がるのではないか
しかし人間の意識というのも、この世界の一部だからな
世界が起こした現象によって意識が発生したならば、そこを別物として扱って意識は意識、世界は世界と切り分けて考える事もまた不自然な事だろう
意識が世界を思考する時、意識から見た世界は矛盾してはならない、そして世界なくして意識が存在する事もあり得ないので、
世界は意識に矛盾を感じさせない意識を作り出さなければならない、矛盾した世界が矛盾のない意識を作り出す事は不可能、つまり世界もまた矛盾してはならない、という事に繋がるのではないか
>>62
我思うゆえに我ありと言った時点で我が存在する
言葉は分別、区別するものだから
我が存在するということは必然的に他者が存在する
ということでコギトエルゴスム自体が不自然なんだよね
しかし認識においてはまさにその言葉や概念、分別によって世界観が成り立つわけで
その意味でもコギトエルゴスムは
人間の認識における世界観がどう成り立つかについて説明する考え方だと思うわ
我思うゆえに我ありと言った時点で我が存在する
言葉は分別、区別するものだから
我が存在するということは必然的に他者が存在する
ということでコギトエルゴスム自体が不自然なんだよね
しかし認識においてはまさにその言葉や概念、分別によって世界観が成り立つわけで
その意味でもコギトエルゴスムは
人間の認識における世界観がどう成り立つかについて説明する考え方だと思うわ
>>65
コギトエルゴスムとか知らんしよくわかんねえがな
お前が何を言ってるのかもだんだん分からなくなってきたわな
コギトエルゴスムとか知らんしよくわかんねえがな
お前が何を言ってるのかもだんだん分からなくなってきたわな
>>68
俺という言葉は俺とそれ以外を区別するし
犬という言葉は犬とそれ以外を区別する
我も我と我以外のその他を区別するわけで
言葉は必ず世界を二分割する性質を持つというか
変な話全てを疑った末に残る我があると言うならば
必然的に疑われるべき我以外の他者も存在するわけで
存在論的(無知だから用語としてあってるかわからん)な言葉だと考えると訳が分からなくなるというか
矛盾が出てくるというかそういう言葉な気がする
俺という言葉は俺とそれ以外を区別するし
犬という言葉は犬とそれ以外を区別する
我も我と我以外のその他を区別するわけで
言葉は必ず世界を二分割する性質を持つというか
変な話全てを疑った末に残る我があると言うならば
必然的に疑われるべき我以外の他者も存在するわけで
存在論的(無知だから用語としてあってるかわからん)な言葉だと考えると訳が分からなくなるというか
矛盾が出てくるというかそういう言葉な気がする
自由意志というものがあったとしても、選択する方向性が最初から決まっているから、
完全に自由にものを決めているわけではないということですよ
完全に自由にものを決めているわけではないということですよ
>>37
意外に昔の東洋思想は良く出来ていて
天の意志と人の意志を分けて考えてたんだよな
人事を尽くして天命を待つとか言うが
例え世界が決定論的に出来ていたとしても
人間レベルの自由意思があるという仮定というか前提で
人はやるべきことやりたいことをするべきというか
意外に昔の東洋思想は良く出来ていて
天の意志と人の意志を分けて考えてたんだよな
人事を尽くして天命を待つとか言うが
例え世界が決定論的に出来ていたとしても
人間レベルの自由意思があるという仮定というか前提で
人はやるべきことやりたいことをするべきというか
>>40
天の意志と人の意志とか、天上と地上という考え方は
形而上学の考え方です
天の意志と人の意志とか、天上と地上という考え方は
形而上学の考え方です
>>42
天命=物理法則含むこの世の法則
人事=自由意思(があるという仮定)に基づいた行為
みたいな感じで
両者をうまく共存させているのがいい
面白いことにブッダなんかも毒矢の例えで
「世界は未来永劫に存在するのでしょうか」「世界には果てがあるのでしょうか」「如来は死後も存在するのでしょうか」
みたいな問について保留してるんだよね
天命=物理法則含むこの世の法則
人事=自由意思(があるという仮定)に基づいた行為
みたいな感じで
両者をうまく共存させているのがいい
面白いことにブッダなんかも毒矢の例えで
「世界は未来永劫に存在するのでしょうか」「世界には果てがあるのでしょうか」「如来は死後も存在するのでしょうか」
みたいな問について保留してるんだよね
>>56
西洋的にはね
ニュートンも天の法則と地上の法則を同一の原理で統一したという意味で画期的だったけど
人事を尽くして天命を待つってのはそれとは別
西洋的にはね
ニュートンも天の法則と地上の法則を同一の原理で統一したという意味で画期的だったけど
人事を尽くして天命を待つってのはそれとは別
だからの使い方おかしいから論破も何もないだろ
肉は美味い。だから、俺は眠い。を論破しろ言ってるのと同じ
肉は美味い。だから、俺は眠い。を論破しろ言ってるのと同じ
結局さ、こういう疑問は答えに行き着く事はねえと思う
こういう疑問をどんどん追求していくと最終的に行き着く最大の謎は、そもそも存在とは何か、という疑問に到達すると思うね
これは絶対に解けない、この世のあらゆる思考は存在する事を前提にしか考える事が出来ないからね
存在が何か分からなければ、存在の上で考えたあらゆる事に何の意味も無いだろう
こういう疑問をどんどん追求していくと最終的に行き着く最大の謎は、そもそも存在とは何か、という疑問に到達すると思うね
これは絶対に解けない、この世のあらゆる思考は存在する事を前提にしか考える事が出来ないからね
存在が何か分からなければ、存在の上で考えたあらゆる事に何の意味も無いだろう
なんか生死にかぎらず、そもそも生き物に自発性は無いって話になってない?
あと、これ系の話好きな人はなんでみんな「ふむ」が好きなの?
あと、これ系の話好きな人はなんでみんな「ふむ」が好きなの?
この先生きのこる期間は決められると思うんやけど
この先生きのこ
結局俺を論破できる奴はいなかったか・・・